ひとりごち「~だから できるんだよね」母と新しい世界に突入して1ヶ月半。 様々な人が母を見舞ってくれる。 そして、母にべったりとくっついている私も、 励ましの言葉やねぎらいの言葉を投げかけてくれる。 そんな日々の中で、幾度かこの言葉を言われた事がある。 「家庭がないから/一人身だから出来るんだよね。」 確かにそうだ。 しかし、この言葉の意図が私にはつかめなくて、いつも返答に困る。 「~だから出来る」 というのは、何かを行う事を可能ならしめている理由、または状況の事を指す。 とすれば、以下のようにも言える。 「生きているから出来るんだよね。」 「日本にいるから出来るんだよね。」 「両手があるから、目があるから、できるんだよね。」 「猫でないからできるんだよね。」 しかし、何かを行う事を可能にする環境・状況は常に「たまたまある」 というわけでもない。 その環境を、選択によって作るからこそ、そういう状況が存在しうるとも言える。 極端な話、死んでも親の介護をしたいと既婚者が思えば、離婚をして介護すればよいのだ。 「できない」のは、最優先を自分の家庭に置くと「選択」し、 自分の「土台」を決して崩さず生きて行く事を決めたが故に、 親の介護の優先度が2番(もしくは、3.4.5番)になっただけの話である。 いいかえれば、「家庭があるから出来ない」のではなく、 「家庭を選択したから、親を介護する時間を減らすことにした。」だけの話だ。 何を一番に置くか、それだけの話ではないか? 私は今回この選択をした。 「卒論を書き上げてしまわなくてはいけないから、病院には毎日行『け』ない。」 とも言えたし、実際のところ論文をどうするか散々迷った。 半年卒業が遅れれば、半年(タイミングによっては数年)正規の仕事を得るのが遅れる。 いや、年齢の事を考えると、もしかすると大学でまっとうなポジションを得る事が 不可能になる可能性も高い。 「一人だから」こそ、既婚者より先の仕事(収入)の事はシビアに考えざるを得ず、 それゆえに、この選択はOLになるのを半年伸ばした短大新卒生の選択とは次元が異なる。 私はそれでもこれを選択した。 自分の生活の土台を崩してしまう可能性があるのを、十重知りつつこの非日常的な毎日を選択した。 なぜか? 母親と一緒にいる時間が「死んでも欲しかった」からだ。 死にかけている母親を、ずっと見ていたいと思ったからだ。 また、未だかつて自分が取り巻かれた事の無かった「病院」という環境、 その組織の作り出す世界に大変興味を抱いたからだ。 将来、生活保護を受けて生きていく危険を冒してでも、この時間を得たかっただけの話だ。 @@@@@ これとは反対に、 「お母さんは本当に幸せですね」 といったねぎらいの言葉をもらう事もある。 母は本当に幸せだろうか? 私が独身で12時間看病されるのと、既婚者で4時間看病されるのと どちらが幸せだと感じるだろうか? 看病時間が半分でもいいから、私の子を抱く方が幸せだろうか? 考えてみると、親と言う生き物も結構勝手なところがある。 年頃になると結婚を口にするくせに、何かあったときには 「やっぱり娘が・・・」 なんて、都合のよい事を仰る。 親といえども、一人の人間。 自分の欲しいものが沢山手にはいるほうが、手に入らないよりかはよいのだろう。 もし、この世の中にもう一人元気な母がいて、私の選択を知ったら 「論文をやれ」 と言っただろうか? もし言ったとしても、私は母の反対を押し切りこの選択をしただろう。 いつか、渡米に反対する母を押し切って、アメリカに飛んでいったように。 ともあれ、私があたかも何も考えずこの環境を得たように解釈し、 「~だから出来る」といわれるのは遺憾である。 私には、何かを出来たり出来なかったりする事はない。 「すること・したい事」と「しないこと・したくない事」が存在するだけだ。 そして私は、自分のしたくない事を 仕方なくやった事は無いのと、 したい事をやらなかった事は いまだかつてない、それだけだ。 |